まとわりつく死のイメージ
序盤でこそ明るい調子で物語が進みますが、画面には少しずつ死のイメージがまとわりつきはじめます。同時に、今まで影に隠れていた誤解や偏見、対立なども浮かびはじめます。
正直、そのシーンたちは心にくるものがあります。けれども、ギリギリまで観客の心を追い込みつつも、しかるべきタイミングで優しいシーン、ホッとするような笑える場面に転換してくれる技量はさすがです。
ちょっと憶測になりますが、印象的なのは死神をイメージさせる謎の老人で、ハフィズが最初に母親を見舞うシーンの後ろで、それまでそこに居なかった老人の姿がほんの一瞬だけ、ぼんやりと映っています。
老人は「普段は歩かない、飛ぶんだ」「(自分は)悪いところはどこにもない」と語りもします。
と、言うよりですね。ハフィズのお母さん役のアゼアン・イルダワティ、この人マレーシアの大女優なのですが、乳がんを患っていて、お金の問題で治療を諦めかけていたところにヤスミンがベッドの上だけの演技でいいからとオファーをかけて、彼女の治療費のために高額な出演料を捻出したというエピソードがあるんですよ。
もう役作りどころじゃありません。現実世界での彼女にもピッタリと死が貼り付いています。この役を演ずることで死をリハーサルしていると考えることだってできます。こんな悲しくて、優しい映画ありますか。もちろん、背景を差っ引いても彼女の演技がとんでもない水準であることは言うまでもありません。
リアリティと虚構
死神の話が出たところで、本作ではリアリティと虚構がうまい具合にブレンドされています。
リアリティ面に関しては、2001年に実際にあったマレー系の結婚式とインド系の葬式が近場でおこなわれたことにより起きてしまった殺人事件さながらの出来事や、開発のためにヒンドゥー教の寺院が取り壊されたエピソードが語られます。
マレーシアで暮らしている人々にとって、忘れられない出来事であり、様々な立場の人がそれぞれの気持ちを抱いているであろうことを想像するのは難しくありません。
しかし、監督はこれをドキュメント的に盛り込んだり、悲劇を追体験させて心を動かすようなことには用いていません。反対に、同じくらい虚構のシーンも盛り込まれます。たとえば、殺人事件の場面では、マレー系の葬式とインド系の結婚式と立場を替えて描かれています。また華人であるメイリンがムスリムなのも珍しい。
そして何より居るはずのない場所に居る車椅子の老人や、マヘシュとムルーが公園で見る子どもたちの姿。
このように、「これは映画ですよ」というエクスキューズがきちんとあるんですね。
これは決して逃げではなく、監督の映画に対する矜持だと私は捉えます。