ホワイトウォッシング問題とトグサウォッシング問題
一応この話題にも触れておかねばならないのだろう。日本ではあまり問題になっていないが、海外では批判の声が高かったようだ。「ホワイトウォッシング」とは、白人が顔を黒く塗って黒人を演じたり、メイクを施して黄色人種を演じたりと、もともとは白人でないキャラクターを白人が演じることである。
「ティファニーで朝食を」日本人家主を演じる白人俳優ミッキー・ルーニー(出典:Wikipedia)
あえて掲げた画像には突っ込まずに話を進めるが、本作では少佐役を演じたスカーレット・ヨハンソンが「ホワイトウォッシングだ」と非難されていたようである。
だが本作、もっと言ってしまえば、攻殻機動隊の世界観に関してこの問題を投げかけるのは的が外れていると言わざるをえない。
そもそも少佐は脳以外を義体化されている設定なので、元の姿かたちをそっくり再現する必要はないし、ストーリー上、生身の人間だった時と完全に姿を変えていないと辻褄が合わない仕掛けになっている。
さらに原作を知っていれば少佐(草薙素子)自体も複数のリモート義体を所持しており、その気になれば男性型の義体にも換装できることを予備知識として持っているので、スカーレット・ヨハンソンだろうがミラ・ジョヴォヴィッチだろうが、どんな顔面に換装されようが些細な問題なのである。
もちろん、この「ホワイトウォッシング」話は本作のみにしか適用できず、島国日本とは違い、海外では繊細な問題なのはわかる。しかし、繊細な問題だからこそ、映画の内容をしっかり理解してから批判して欲しい。反論できにくく、声の大きいクレームが勝ってしまったら、その先に待っているのはモノを創る人がより生き辛くなる世の中だ。
と、いろいろ書いたが、本件に関しては、「それならアンドロイドがゲイシャやっているのなんてアンドロイドウォッシングじゃねえか。そんなことよりトグサウォッシングをなんとかしろ」と私は言いたい。
名作ゆえ、ジャンルゆえ、比較されてしまうことの悲劇
原作が漫画、そしてアニメだからだろうか。本作が背負った悲しい宿命は、その「比べられてしまうことの多さ」に尽きると思う。しかも比較対象が素晴らしいものばかりだから余計タチが悪い。
街並みを描けば「ブレードランナー」と比べられる、アクションを描けばブラック・ウィドウと比べられる、北野武を出せば「アウトレイジ」と比べられる、そもそもSFなので数多の作品群と比べられる、そして何より原作と比べられる。
「ブレード・ランナー」の街並み(出典:IMDb)
これは何も本作に限ったことではなく、むしろ世に出た作品ならば必ずヤラれるものだろうが、本作は原作(漫画版、アニメ版)のクオリティも相まって、石を投げられ続けたような気がしないでもない。正直、ちょっと気の毒だ。
個人的には「ブレードランナー」調の街並みは好きだったし、昨今のSF映画にありがちだった「お前は無印良品か」と思わず突っ込んでしまうほどのシンプルっぷりと驚きの白さがあまり好きではなかったので、古き良きSF映画の街並みとして楽しめた。
「ゴースト・イン・ザ・シェル」の街並み(出典:IMDb)
比較対象がないと賛否の判断が難しいのはわかる。だが、たとえば本作を単純に「オリジナルのSF映画」として観た場合では、それまで石を投げていた人だとしても「まあ普通だな」と及第点をつけることが多いのではないだろうか。
実際、私も本作が「ルパート・サンダースの完全オリジナル作品」だと仮定した場合、感想としては「結構面白かったよ、映像もよかったし」となるだろう。
もちろん本作には原作があり、原作の関連作品も山のようにある。比べる対象が多く、思い入れがある場合ならばなおのこと、人は気付かぬうちに色眼鏡をかけてしまっている。
しかし、「ゴースト・イン・ザ・シェル」は、原作を知っていれば知っているほど、できれば色眼鏡を取っ払って観て欲しい作品である。
なぜなら、「え、原作と違うじゃん/ちょっとつまらないなー」と感じてしまったとき、陰性感情が増幅してしまう可能性が高いからだ。その感情はいつの間にか「いかにこの映画がつまらなかったのか言ってやろう」と、映画の粗探しに向かってしまう。これではつまらなくて当たり前だ。