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酔っ払いにおすすめのB級グルメ「富士そばのカレーカツ丼」編

加藤広大 加藤広大


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富士そばでの食事、それはギリギリで愛情

富士そばでの食事は、ただの食事ではない。もちろん、泥酔しているときしか行かないので、その時点で「ただ」ではないのだが、そういうわけではない。人は食べねば生きられぬが、別に酔っ払って富士そばを食べなくても生きていけるのである。むしろそちらの方が翌日胃もたれせず、健康に暮らしていけるとさえ言える。

しかし、食わねばならない。午前3時の恵比寿、富士そばの光を見つけた瞬間に「カレーカツ丼」と書かれたのぼりの幻覚が見えたなら、足を向けずにはいられない。

これは中毒なのだろうか、それとも、何かもっと別の力なのだろうか、はたまた、単なる条件反射なのだろうか、そんなことはどうでもいい。今、目の前に富士そばがある、カレーが、米が、盛られるのを待っている、カツが煮られるのを待っている、そして、それらは同じ皿に盛られることを待っている。これが行かずにいられるか。

注文を待ちながら、ふと横に目をやると、大学生とおぼしき若者が蕎麦を頼んだまま寝ている、ヨレヨレのシャツを着たサラリーマンが券売機で悩んでいる、厨房のおっちゃんが威勢のいい声を出して注文を捌く。

だいたい皆ひとりで、さながら「富士そば」というショートムービーのなかで、それぞれの役を演じているかのようだ。たとえなくとも、現実に彼らは私の人生に出演しているし、私も彼らの人生に出演している。それらはまったく当たらなかったB級映画のように、ソフト化せずに誰にも知られない。

できたてのカレーカツ丼を口に入れる「あはは、やっぱりアホみたいに美味いなあ」とひとりで笑いながら食べ続ける。ちょっと寂しいけれども、それなりに楽しいし美味しい。正直、無駄な食事である。でも、なんだかその無駄がいい。涙が出そうになる。

そう、泥酔した状態で富士そばでカレーカツ丼を食べる行為は、無駄を楽しむ行為なのだ。なんと贅沢なことであろうか。私は夜中の恵比寿でいろんなものを食べたが、富士そばのカレーカツ丼以上に脳が快楽を感じる一皿を、未だ知らずにいる。いや、知りたくもないとさえ思っている。

「あのときも食ったな」「このときも食ったな」と、いい思い出も嫌な思い出も噛み締めながら食べるカレーカツ丼のポジションに、他の何かが闖入(ちんにゅう)して欲しくないのだ。その気持ちはギリギリで愛情と言ってもいい。

さて、これまで富士そばについて約5,000文字ほど書き連ねてきたわけだが、あくまで「泥酔状態で食った」場合である。シラフの状況で食すカレーカツ丼の味は保証しかねるのでご了承いただきたい。なぜならシラフで食ったことがないからである。しかし、それでもいいと思っている。なぜなら、一方的に愛するということは正常な判断能力を失うということでもあるのだから。

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