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「ゾンビランド:ダブルタップ」2010年代にトドメを刺す、二度目の発砲音

加藤広大 加藤広大


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「2010年代のゾンビ映画」という10年

今回は「ゾンビランド:ダブルタップ」について書いていくのだが、その前に前作「ゾンビランド」の位置づけを簡単にさらっていきたい。

見出しで2010年代と書いたが、時代はひとつ前のディケイドに飛ぶ。00年代は10年代にやってくる「ウォーキング・デッド」の株価高騰に代表されるゾンビブーム(というか、ゾンビ物に今まで触れることのなかった人々が出会った、つまり身近になった)の助走期間であったと、個人的には考えている。

その助走のなかで、とくに勢いをつけたのは「ショーン・オブ・ザ・デッド(2004)」と「ドーン・オブ・ザ・デッド(2004)」だと見積もっているが、豊作だった00年代の最後、2009年に実りをつけ登場した作品が「ゾンビランド」だった。

「ゾンビランド」では、謎の新型ウィルスが世界中に蔓延。感染した者はゾンビになり、人類は滅亡状態になっている。そんななか、テキサス州ガーランド在住のコロンバス(ジェシー・アイゼンバーグ)は、自身に課した「ゾンビから生き残るための32のルール」を守りながら生き延びていた。

彼は両親が住んでいるオハイオ州コロンバスに向かう道すがら、ゾンビを狩ることに執念を燃やすトゥインキー(ものすげぇ甘いお菓子のことです)好きのタラハシー(ウディ・ハレルソン)や、詐欺師姉妹のウィチタ(エマ・ストーン)、リトル・ロック(アビゲイル・ブレスリン)と出会い、行動を共にすることとなる。

と、正体不明のウィルスにより突如世界中がゾンビまみれ→オタク青年が生き残る→屈強な武闘派が仲間に→ゾンビ映画を彩る美人もしっかり登場と、何てことはないパーティーと話の展開なのだが、これが滅法面白い。

その理由は、押し付けではないユーモアに溢れ、チャーミングな裏切りがあり、臓物は割とキモく弾け、派手な爆破がある点だった。ゾンビ映画においてはお約束が繰り返されるが、それらを「ルール」として扱ったのも功を奏した。そして何よりゾンビ映画に対するリスペクトがあり、とても丁寧に作られていたというのも好印象で、とにかく楽しくて、面白くて、グロくて、爽快感もB級映画感もある作品だった。

そんな「ゾンビランド」に続いて作られた10年代の作品群は、無論ロメロゾンビをある程度参考にしているものの、出汁としては上記00年代の傑作を分子として制作された作品が多い。「ゾンビワールドへようこそ」「インド・オブ・ザ・デッド」「カジノ・ゾンビ」など、パッと思いついたものを挙げただけでもいくらでも出てくる。

で、後半になるとゾンビ物が市民権を得ていない韓国でも、ハイバジェットな「新感染:ファイナル・エクスプレス」が作られるなど、ゾンビ映画はゾンビ映画に登場するゾンビのように次々と感染者を増やし、さまざまな国で、予算で、クオリティで、多くの作品がリリースされるに至っている。

その点で00年代のゾンビ映画にケリをつけ、10年代への橋渡しをした重要な作品であるというのが、筆者が考える「ゾンビランド」の位置づけである。その記念すべき作品の続編が再び10年代の終りに公開されるとなれば、ハードルがガンガンに上がるとともに、不安も増すというものだろう。筆者は10年待った。最後の1年は熱烈に待った。なので予告編解禁のニュースを見つけたときなどは、怖くてしばらく動画をクリックできなかったほどだ。そして、ついに「ゾンビランド:ダブルタップ」は公開された。

で、続編は結局どうだったか。なんのなんの


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画像提供:Sony Pictures Entertainment, Inc.

大傑作である。METALLICAの「Master of Puppets」を伴奏にしてはじまるオープニングの、スローモーションで展開されるゾンビとの格闘シーンにおける凄まじきB級映画感からして、もう素晴らしい。

例えば、10年前に通っていたバーがあったとして、そのバーは今や各種媒体で特集があれば、必ずピックアップされるような超有名店になってしまったとする。こちらはしばらく足が遠のいているので行き辛い。もし内装が豪華になっていたり、チャージが20倍にもなっていたり、店主は仕事を従業員に任せ引退していて、知らないバーテンダーがシェイカーを振っていたらどうしようと思いつつも「まあせっかく近くまで来たんだし、変わっちゃってたら1杯飲ん出りゃいいや」とドアを空けたところ、増税の影響でチャージだけは100円上がっていたが店内の造作も店主の愛想も変わっておらず、10年前とまったく同じ、懐かしいトーンで「あら、○○さんいらっしゃい。ずいぶん久しぶりですね」と言われた状況を想像して欲しい。嬉しさとともに、一瞬で当時にタイムスリップできる。

パブリックでありながらも非日常を提供する空間は、変わらないことが望ましい。少なくとも、常連客には変わっていないように見せるのが重要だ。勢いバーの例えになったが「ゾンビランド:ダブルタップ」も、まさしく「変わらないこと(または変わっていないように見せること)」の凄みを味あわせてくれる。

なにせ冒頭一発「ようこそゾンビランドへ、久しぶりだね」とのご挨拶から、一瞬にして古参客を引き込んでみせる。店内は何も変わっていない。店に立つ面子だってそうだ。うだつの上がらないバーテンダーも、酔客に睨みをきかせていた店主も、ホールをやってた可愛らしいお姉ちゃんも、少しは時の流れを感じさせるものの、あの頃のままだ。

「ソーシャル・ネットワーク」でマーク・ザッカーバーグ役をこなしたジェシー・アイゼンバーグは、10年経っても冴えないコロンバスのままだし、「ゾンビランド」から「ラ・ラ・ランド」まで島流しされてしまったエマ・ストーンはまるで北関東在住のシングルマザーの如き貫禄が出ているものの、確かにあのウィチタである。10年経ったアビゲイル・ブレスリンは久々に親戚の子供に会ったらいきなりデカくなって思春期に突入し生意気盛りになっていたような微笑ましさがあるし、何よりウディ・ハレルソンは純度100%のウディ・ハレルソンである。

この安定した「変わらなさ」に説得力をもたせているのが、演技スキルのチューニングであろう。我々はウディ・ハレルソンはもちろんのこと、ジェシー・アイゼンバーグが、エマ・ストーンが、演技に関してハイスキルであると既に知っている。10年間一線で活躍してきたキャリアは伊達じゃないし、当時と比較してスキルアップしているのは言うまでもない。

が、そのハイスキルぶりは適度に抑えられ、決してお高くとまらず、「ゾンビランド」対応の演技に収めてみせる。これは役者だけでなく、監督、脚本も同様で、ルーベンフライシャーは「ゾンビランド」の後、「ヴェノム」の監督まで昇りつめた。またポール・ワーニック、レット・リースご両人も「デッドプール1・2」の脚本を手掛けるまでになったものの、やっぱりゾンビランド対応の、B級感溢れるバランスの取れた仕事ぶりだ。

このように本作では、前作に関わった主要人物のほぼ全員が、今や一流と呼ばれるポジションについている。つまりバンドが一旦解散して、各々ソロ活動で結果を出してから再集結したLUNA SEAみたいなもんで、スキルアップしたメンバーが再開し、再び音を出した瞬間の無敵感たるや凄まじい。確実に変化しているのがわかる。だが、結局ステージやスクリーンに映るのは、我々が待ち焦がれていた、ある意味で「変わらない」面子なのだ。

話を映画に戻すが、役者・監督・脚本家と最高の面子が再集結したことに加え、さらにサポートメンバーとして、あの「オールド・ボーイ」「お嬢さん」で撮影監督を務めたチョン・ジョンフンが参加している。もう無駄遣いとしか言いようがなくて笑ってしまうのだが、擬闘シーンのスピード感をはじめとして、要所要所でしっかりと仕事をこなしつつも、やはり「上手さ」は表出させない。このクオリティコントロールは、まさに一流の証だろう。

一流がバカをやるということと、バカで粋なウディ・ハレルソン


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画像提供:Sony Pictures Entertainment, Inc.

しかし、現役で活躍している一流のスター集団が、ある意味「バカな映画を撮る」のは、かなり危険な賭けである。鼻持ちならない上手さが出てしまうことも往々にしてあるし「こんなもんだろ」と手を抜いてしまえば一瞬でバレてしまう。

ほかにも、周りが神格化し過ぎて良し悪しのジャッジが甘くなってしまう例を、某日本人監督の例を持ち出さずとも、我々は数々の作品で、そして続編で味わってきた筈だ。また一流になってしまうと、バカの気持ちがわからなくなってしまう危険性もある。それで「(鼻をほじって放屁をしながら)バカっぽいだろぉ」とバカっぽいことをしてしまうと、本段落のように意味がよくわからず真の意味でのバカっぽい案件になってしまう。

相手に「最高にバカだな笑」と思わせるのは、とてつもない知性と計算が必要不可欠で、感動だエモだ泣かせだなどより遥かに高等な技術である。では本作はどうか、徹頭徹尾バカである。そして、バカの中でもバカの壁を飛び越えて感動すらさせるバカをウディ・ハレルソンが担っているのは間違いないだろう。

今や「ちょっといい感じの役で出て、いい感じのアドバイスをする、いい感じのおじさん」という役柄も増えてきた彼のことを、ミッキー・ノックスだと認知している人はどのくらいだろうか。「ゾンビランド」が公開された同年に、パパラッチをゾンビと見間違えて殴打した彼を覚えている人がどのくらいいるだろうか。あるいは マーティン・マクドナーと聞いて、「スリー・ビルボード」ではなく「セブン・サイコパス」のウディ・ハレルソンを想起できる人はどれくらいいるだろうか。

数々の映画に出演し、数々の問題行動を起こし、今や58歳となったウディ・ハレルソンが、あんなにも楽しそうに演じていた「ゾンビランド」から10年を経て、再びタラハシーをやっぱり楽しそうに、キレッキレで演じ、大好きなエルヴィス・プレスリーに無邪気に扮し、あろうことかあの名曲を調子っぱずれに歌ってみせる。でもブルー・スウェード・シューズはサイズが合わなくて履けない。そして何より、全編に通底する滑稽で情けなさが滲み出る父性。こんなにバカで粋なことがあるか。筆者は試写室で一度、自腹を切って訪れた映画館でもう一度、一人で、バカみたいに泣いた。

だが、本作のタラハシーとて完全無欠なわけではない。「前作での重要アイテムであったトゥインキーの行方がわからねぇじぇねえか不完全燃焼だよ」という指摘が至るところでなされているはずだ。が、疑似家族のなかで、必死に父親として振る舞おうとするタラハシーは、もはやトゥインキーによって退行する必要がない。すっかり「ゾンビランド」になってしまった世界で10年間生きてきた彼には、解決すべき別の問題があるのだ。

これはタラハシーだけでなく、他の面々も同じだ。リトル・ロックなんてわかりやすい思春期ガールだし、コロンバスもウィチタも、ゾンビまみれの世の中で、なんとか先に進まなければいけないと思っている。そして、4人とも「居心地が良くて悪い」疑似家族が、いつかは解散するかもしれないこと、解散しなくとも、様々な問題を解決していかなければいけない面倒臭さを抱えている。

本作は、上記のような疑似家族の風景に多くの尺が割かれている。これが「冗長で、せっかく強化されてキャラ付けされたゾンビの出番が少ない」という指摘もまた、あらゆるレビューサイトで言及されているはずだ。それは別に構わない。だが、非日常が日常になってしまった世界では、今や「家族」の話こそ非日常であり、描かれるに相応しい内容だと思うし、そこに気の利いたユーモアが振りかけられていればさらに良い。

ただ一点、疑似家族話に関しては、前作を鑑賞していないと冗長かもしれない。なので本作を観る際は、「ゾンビランド」を観ておくことを強く推奨する。というか、絶対観たほうがいい。鑑賞済みであれば一足早く、素敵なクリスマスプレゼントを貰えるはずだ。

ゾンビランドは「これでいい」のだ


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画像提供:Sony Pictures Entertainment, Inc.

これは宿命みたいなものなので仕方がないのだが、続編モノは必ず前作、とくに第1作目と比較される。もちろん本作も比べられているだろう。

だが、そもそもなぜ、前作と比べるのだろうか。前作は越えなければいけないものなのだろうか。無論「前作越えを目指す」といった目標は掲げたって良いが、そうだとすれば、何をもってして「越えた」と言えるのか。予算だろうか? 火薬の量だろうか? 血糊の多寡だろうか? 興行収入だろうか? いずれも実数では測定できるが、そんなもので比べても仕方がない。では「前作と比べて面白い」といった点だろうか。至極真っ当な視点に思えるが、面白さは個人によるので、映画館で1900円をベットして損したと思う人もいれば得したと感じる人もいる。

けれど、前作を越えなければいけない、なんて決まりはないし、より面白く、豪華にしないといけないわけでもない。「変わらない」という選択肢だってある。だが、変わらない(またはそう思わせる)選択をとり、なおかつ客を楽しませるのは、変革するよりも遥かに難易度が高い。

しかし、本作は難易度高めの「変わらない」選択肢なんてなんのその、余裕綽々で「ゾンビランド」の10年後を、まるで昨日のことのように描いてみせる。なので、前作と比べて大きな変化はないし、何かが凄まじくレベルアップしているわけでもない。だが、久しぶりに訪れた「ゾンビランド」は、あいも変わらず4人が楽しそうに暮らしていて、まだバカをやっていた。これでいいじゃないか。それ以外に何が必要なのか。

何よりも、前作同様に明るいのがいい。ポツポツと消えていく街の灯りを眺めることしかできない終末感ではない。やっと辿り着いた島での絶望感でもない。ゾンビよりも知能が低そうな人間同士の啀み合いでもない。こんなになっちまった世界を楽しく生きていくには、ユーモアが必要だという、10年前に「ゾンビランド」で示された「生き方」は、10年後の今、再び意味を増して迫ってくる。

「ゾンビランド:ダブルタップ」は「ゾンビから生き残るための32のルール(その2)」を忠実に守り、1撃目の銃弾から10年後、2度撃ちして再び観客を撃ち抜く。そして、2010年代のゾンビ映画にもトドメを刺し、発砲音を響かせながら終わりを告げ、来る2020年代のゾンビ映画へ襷を渡す傑作である。


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[イラスト]清澤春香

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