バカだらけの経済小説「見積」

西島知宏 西島知宏


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時計の針は、20時を回っている。

「どうだ、見積もりは?」

15年目のベテラン営業山田は、癖であるフレミングの法則を右手で作りながら低い声で呟く。

「すみません・・」

当事者である新入社員の佐藤は汗だくだ。
無理もない。クライアントへの見積り提出期限は21時。
ブラインドタッチを知らない佐藤にとって、1時間は1分にも等しいのだ。
佐藤は少しでも暑さを紛らわすため、ダウンコートを羽織った。

「どうした?」

佐藤の左右の人差し指の動きが止まったのを見て、山田が声をかける。
PC画面を覗き込んだ山田の表情が、かすかに強ばる。

「そこか」

山田が苦悶の表情を浮かべる。

「すみません・・」

佐藤が産まれたての子鹿のような顔をしている。

「どうしたの?」

ミツコがPC画面を覗き込むと、そこ映し出されていたのは「山菱商事 様」の文字。

「様か、御中か、俺もこの15年間、答えを探し続けている・・・」

遠い目をする山田の表情は、どこか誇らしげだった。

「御中にしましょう」

助け舟を出したのはミツコだった。後に分かることだがミツコもこの時、どちらが正解なのか、確信を持てないでいたのだ。

「御中にしましょう。大丈夫、いざとなったら私が辞表を書くから」

ミツコは、それが作り笑いだと気づかれないよう、あえておどけたような表情を浮かべた。

佐藤と山田が黙ったまま頷く。

「迷った時は字数が多い方、ってことわざもあるしな」

孫氏の兵法を愛読している山田がポツリと呟く。

「リアリティ?」

駅前留学中の佐藤も反応する。

それから、佐藤の左右の人差し指は、まるで水を得たイカのように勢いを増す。

滝のように流れる汗、ケンサキイカのように動く佐藤の細長い人差し指、指、指。
1クリック、1クリックに3人の想いがのっていく。

佐藤の汗の勢いは、もはやナイアガラの滝のそれを超えている。

佐藤の力に、少しでもなりたい。そう思ったミツコは、暖房の設定温度を32度にする。
それを見ていた山田もミツコにウィンクを送る。まるでピルロのゲームメイクのようだった。

「こぴーひ、きかくひ、さつえいひ、へんしゅうひ・・・」

漢字が苦手な佐藤は、間違えないよう声に出しながら、見積もり項目を1つ1つひらがなで打ち込んでいく。
時計の針が20時50分を差した頃、佐藤の指が止まった。

「でけた・・」

恍惚の表情を浮かべる佐藤、それを愛おしそうに眺める山田とミツコ。

3人の心は、まるで大統領選挙に勝利したかのような充実感で満ちあふれていた。

「よくやったぞ、佐藤」

「絶対に負けられない戦いに勝ったね、佐藤」

山田とミツコがねぎらいの言葉をかける。

「お、俺、田中です」

「え?」

「よ、よーし、飲みに行こう!! 今日は俺のおごりだ」

上ずった声で山田が2人を誘う。

「まじっすか、やったー!!!」

佐藤改め、田中が大げさなガッツポーズを作る。

「さぁ、行こう!」

ミツコが身支度を始める。
それに続いて佐藤改め、田中も、エクセルファイルを保存し、身支度を始めた。

「田中君、PCの電源落とさなくていいの?」

「はい、いつもこのままなんで」

先に身支度を終えた山田がオフィスの照明をきる。
山田に続くように2人も真っ暗になったオフィスを後にする。

「ははははは、ははははは・・・・」

3人の笑い声が完全に消え、壁掛けの時計の針が21時5分を回った時、

「You got mail♪」

誰もいないオフィスに、通知音が鳴り響く。

差出人:クライアント 山口さん
件名:見積まだですか?

3人は翌日、クビになったのだった。

(終)

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