1982年「ブレードランナー」について
1982年の「ブレードランナー」は先にも書きましたが、僕の精神に多大な影響を与えていて、いまもその世界の中にいるのではないかと感じるときすらあります。その魅力の中心には映画として3つの革新性がありました。それは
1.SFなのに進歩史観で作られていない
2.ディストピアな世界観が現実の世界に影響を与えた
3.言葉の言い換えによって新しい概念を作った
出典:Yahoo!映画
1.SFなのに進歩史観で作られていない
それまでも科学技術が発達しても人類の未来は良くはならない、むしろ暗黒の時代になるかもしれない、というSFはたくさんありました。しかし、主人公が主体的に考え行動することで、その閉塞に希望を与えるドラマがストーリーの軸であり、カタルシスでした。しかし「ブレードランナー」は違います。これは80年代、さんざん語られてきたことですが、その「ポストモダン性」が際立っているんですね。物語も主人公も、50年代の探偵物の映画、フィルム・ノワール風の進行と行動様式を持ちますが、フィルム・ノワールの主人公すら「信念」や「正義感」を持っていた。対して「ブレードランナー」の主人公、ハリソン・フォード演じるデッカードは、ほんとうになにを考えているかわからない。感情移入しにくく、状況に流される存在です。これは新しかった。だからこそ、次に②で述べるような世界の一住人として本当に存在しているように感じられる。
余談ですが、ハリソン・フォードは35年ぶりにデッカードを演じたこの「ブレードランナー2049」で、シリーズ物のはまり役を3つも持った稀有なハリウッド俳優になりました。「スターウォーズ」のハン・ソロと「インディ・ジョーンズ」、そしてデッカードです。シルベスター・スタローンでも「ロッキー」と「ランボー」のふたつですから、もはや史上最多のはまり役の持ち主と言っても過言ではありません。
さらに余談になりますが、そのシリーズ物において、「ハリソン・フォードが演じた役の子供が揉め事の種になる」が共通しているのはどういうわけでそうなっているのでしょうか。
出典:Yahoo!映画
2.ディストピアな世界観が現実の世界に影響を与えた
これは、その後のSF映画や漫画で、都市の表現がすべて「ブレードランナー」風味になったことのみならず、現実の景観を見る時、造る時に、世界中の人が「ブレードランナー的である」を意識するようになったことです。リドリー・スコットやアートディレクターのシド・ミードが作り上げた、あとからあとからゴテゴテに作ったゴシック様式と東洋が混じる街に人種がごった返すイメージ。やたら雨の降る街がNYでもデトロイトでもなく「LA」であるという衝撃、ヴァンゲリスの音楽。そんなに遠くない「西暦2019年」の設定なのにこれだけ陰鬱な世界。
出典:Yahoo!映画
3.言葉の言い換えによって新しい概念を作った
1982年「ブレードランナー」はフィリップ・K・ディックの小説が下敷きになっていますが、多くの部分で改変があります。そのひとつが、言い換えです。
言葉の言い換えで成功した作品は、たとえば「機動戦士ガンダム」です。ロボットを「モビルスーツ」と言い換えた。エスパーを「ニュータイプ」と言い換えた。この巨大な発明により新たな概念が生まれた。
「ブレードランナー」でも、「バウンティハンター」を「ブレードランナー」と言い換えた。これは、全然関係ない小説、アラン・E・ナースの『ザ・ブレードランナー』やそれをさらに流用したバロウズの『映画:ブレードランナー』からとりました。
そしてなにより「アンドロイド」を「レプリカント」と言い換えた。
この言い換えが発明だったのです。そして富野由悠季もリドリー・スコットもこの言い換えを使ううちに、物語を作りながらテーマが変わっていった。言い換えたことによる気づきがあって、いわば、あとづけで巨大な背景に思い至ったのではないでしょうか。
「ブレードランナー2049」はそれらをどうしたのか
ここからは、気づいたこと、観ながら考えたこと、そして多くの人が共通して指摘していることの羅列/断章になります。ネタバレなんですが、断章だけ読んでもいまひとつわからないと思います。前作と今作を両方観た方なら、なんの話をしているかはわかってもらえるかと思います。
主人公「K」
●ライアン・ゴズリング演じるK。同じLAが舞台のはずの「ラ・ラ・ランド」、同じ主演のはずなのにこんなに街も雰囲気も違うのか。しかし2017年はまったく、ライアン・ゴズリングの年でした。
●前作でショーン・ヤングが演じていた女性レプリカント「レイチェル」の抱える問題も「私は人間ではないのか? だとしたらこの記憶はなんなのか」というものでした。今作ではそのテーマを引き継いでいます。
●今回は「K」がレプリカントであることが前提で、それが「違うのではないか? もしかして俺は人間なのではないか?」という逆のアプローチですね。「自分は偽物なのでは?」という前作と「自分は本物なのでは?」という今作。完全に対になっているのですが・・・それを探る過程はすこしややこしくし過ぎてしまっているきらいがあります。
●とにかく、今作の主人公「K」は可哀想なんです。悲しすぎて泣けます。心が芽生えているのに、覚えていたもの見たものすべてが否定されて、何もなくなる。しかし、何もなくなった先にどうするか? 何を学び、どう行動するかという、この物語はじつはビルドゥングス・ロマンなんですね。そういう意味では1982年の「ブレードランナー」とは全てが逆の、オーソドックスなドラマツルギーがある。
●「KD9-3.7」というシリアル番号からくる「K」という名前は、フィリップ・K・ディックのK、そしてカフカの小説『審判』のヨーゼフ・K、『城』のK。カフカもディックも「理由がわからないまま翻弄される男」の話、また「自分は本当に自分なのか?」をテーマにした小説をたくさん書いた作家です。
●Kがレプリカントとして余計な感情をもっていないかのテストのために毎日暗唱させられるのはロシアの作家、ウラジーミル・ナボコフの『青白い炎』の一節。架空の詩人の書いた詩と架空の注釈、虚構の上にさらに虚構があるという本で、これまた象徴的。
●またKはこのあとで述べるジョイから「ジョー」と呼ばれます。ジョーはジョゼフ(Joseph)、それは旧約聖書に出てくるヨセフ。この「ヨセフ」は旧約聖書では「ラケルの子」。そしてジョゼフの通称はジョー(Joe)。
AI「ジョイ」
出典:IMDb
●かわいい。
●「JOI」と名前に「01」が入ってる人工知能とホログラムでできているジョイの起動音は、ロシア人作曲家セルゲイ・プロコフィエフによる「ピーターと狼」のイントロ。「ピーターと狼」は狼がアヒルを飲み込んでしまう話です。人間でない者同士の関わり、交渉、争いのストーリー。
出典:IMDb
●「JOI」は「JO&I」ですね。「ジョーと私」。主人公Kはジョーと呼んでもらって喜ぶのですが、ラストの悲しすぎる伏線になってます。ていうか、自分が愛用してる「製品」の広告ぐらい見たことあるやろと思うのですが。
●前作は人間とレプリカントの話で、「生命とは何か? 心とは何か」というテーマに帰結していた。今作はこれにAIが加わって、さらに進めて「生きる意味とは何か? 魂とは何か」がテーマになっている。ただ、これは後述しますが「ポストモダン」から「モダン」への回帰のような気もします。
●ジョイには自我があります。相手の立場に立つことや、自己犠牲の精神がめばえています。それはもはや人間なのではないか? じつは、この「AIの持つ心」というのは、「ブレードランナー2049」の小道具/サイドストーリー/脇役ではなく本筋に関わることではないかとも思います。
●ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は「Kはピノキオだ」と答えています。無垢ゆえに善悪の判断を付けられないピノキオを励まし、良心に導くのはコオロギのジミニー・クリケット。ジョイはKのジミニー・クリケットですね。
しかも、そのジミニー・クリケットに良心を諭す役割を授け、そもそも「ピノキオを人間にした」のはブルー・フェアリーです。
人間でない者と肉体を持たないAI/ARの組み合わせ。JOIとKの関係とはなんなのか? がわかる構図です。