慚愧の値打ちもない【連載】ひろのぶ雑記

田中泰延 田中泰延


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9ヶ月たった。人から「なぜ電通を辞めたのですか」と、ひっきりなしに訊かれる理由がだんだんわかってきた。

 

私が、なにもしていないからだ。
 

違う会社に再就職したり、自分で会社を始めたりしていれば、「ああ、それがやりたかったのですね」と説明しなくてもわかってもらえる。

 

ところが私ときたら、無職だ。私と名刺交換した人なら知っているが、ほんとうに【青年失業家 田中泰延】と書いてある。「どうやらこのオッサン、将来のことを考えてないぶりは本気だ」と相手が理解したあたりから、しぜんと疑念は

 

「電通はあなたにとってそんなに嫌なところだったのですか?」

 

に移行する。

 

きょうはちょっとマジにその辺りの話をしたい。しかし断っておくが、私は古巣のことを悪く言うつもりはサラサラない。逆に、大きな、悲しい事件があり、いろいろな社会的制裁を受け、変革を余儀なくされている電通という会社をことさらに擁護する立場にもない。
 

そもそも、わたしは電通を卒業したわけではない。それは、定年退職したり、役員になって退任したり、その職務を全うできた者だけが使える言葉だ。私は、「中退」であり、ドロップアウトした人間だ。

 

たしかに、電通は忙しすぎた。予約を入れられない人生との戦いといっていい。とにかく、時間がなかった。
 

24年間、ずっと
 

「今夜、学生時代の友達と飲みに行く約束をした」
「水曜日のコンサートのチケットを取った」
「土曜から温泉に一泊旅行するお金を払い込んだ」
 

・・・これらはほとんどぶちこわされてきた。
 

クリエーティブ部門の私の予定は、青ざめた顔でクライアントから戻ってきた営業担当の、言いにくそうな一言で消滅させられる。

 

「お得意様は、どうも提案物のイメージが違うと言っています。明日までに再提出しなければなりません」
 

「宣伝部長が、役員に企画案を全否定されたそうです。週明けの月曜に再プレゼンになりました」

 

「イメージが違う」とはなんなのだ。一度でもクライアントは私たちに「イメージ」とやらを伝えたか。
 

簡単に「全否定」とおっしゃるが、その提案には1ヶ月かかったのだ。それを金曜夕方に告げられて月曜にまたプレゼン? 1ヶ月かかった提案物を超える企画を、こんどは2日間で作れというのか。しかも土曜と日曜に。クライアントも、それを伝達した我が社の営業担当も、ゴルフをしたり、家族とテーマパークに行ったりしながら我々が月曜にやってくるのを待つというのか。

 

これが私の心と体に徐々にダメージを与え、24年間の会社員生活で、私は1ヶ月以上の入院を、じつに4回もすることとなった。

 

診断書は「過労」であったり、「血液検査で判明した肝機能の低下」であったりで、内科への入院だったのだが、今思えば多分に心療内科の治療を必要としていたのだろう。
 

だが、私自身、うすうす心の問題だとは感じていたが、心療内科や精神科を受診することは今後の会社員人生を絶ってしまうのではないかという恐れがあり、内科病棟の4人部屋でただ静かに横になることを選んだ。

 

しかし4度とも会社側の対応は丁寧で迅速、職場の先輩、仲間たちは驚くほど優しく私を待ってくれていた。
 

上司や同僚はその都度、見舞いに来てくれたし、私がクリエーティブ部門を異動になることもなかった。その温かさは身に余る。
 

何度目かの入院から戻っておそるおそる出社した時、職場のホワイトボードに、
 

【田中 入院中 そっとしておいてやろう 必ず戻ってくるから】
 

と上司が書いてくれてあったのを消しながら、
 

【田中 本日より元気に出社】
 

とマジックで大きく書いた時は涙が止まらなかった。
 

それから、自分のワークライフバランスを見直し、40歳を迎えた頃には「毎年支給された有給休暇は使い切る」「海外旅行など1ヶ月前に計画したことはチームに前もって伝え、何が起こってもキャンセルしない」などの自己方針を決めてからは入院することはなくなった。
 

ただし、「今夜の予定はごめんなさい。会社に泊まる」「土日にやるしかない」という電通の体質は変わることがなかったが。
 

いまも、もちろん、電通の元上司、クリエーティブのチーム、同期入社組、後輩、営業担当もふくめた仲間は同志だと思っている。むしろ「会社が大変な時期にケツを割って退職金をもらって去った自分」が恥ずかしいくらいだ。
 

「仕事」というのは、「自分の出来る能力と、自分の使える時間で、社会に存在する問題にとりかかり、自分の担当部分を解決し、自分の分のお金をもらう」ことだと私はシンプルに考えている。
 

そういう意味で、電通の先達も、仲間も、その「仕事」を遂行する「同志」だったし、いまでもみんなを尊敬している。だから、入退院をくりかえしても、わたしはまた同志たちと「仕事」に立ち向かったし、彼らもまたタフだった。

 

しかし、そんな中で、悲しい出来事が起こった。
 

これは、初めて書く。
 

その前の年のクリスマスに起こった悲しい事件を私が知ったのは、2016年の年明けだった。

 

私は、社内の訃報掲示と、社内報に載った追悼文でそれを知った時、驚きと共に、心のどこかが慟哭しているのを感じた。そして「これは、おそらく、大きなうねりになる」と確信した。
 

その時。初めて告白するが、私は、あることをしてしまった。

私は、自ら命を絶った彼女と、面識はなかったのだが、同じ会社の新入社員ということで、ツイッターのフォロー/フォロワーの関係として、言葉を交わしたことがあったのだ。
 

彼女がこの世を去る数ヶ月前のできごとだ。深夜3時ごろ、会社で徹夜作業をしていた私の目に、つぶやきが飛び込んできた。
 

「まだ会社にいる しんどい」
 

みたいな内容だったと思う。私はそれに反射的に
 

「おれも会社で徹夜 がんばろう」
 

というような言葉を返してしまったのだ。

 

慚愧ざんきの念が私を包んだ。後悔してもしきれない。私は、彼女の訃報を知ったとき、過去を検索して自分のそのツイートを探し出し、慌てるように消去した。

 

のちに、日本中が知るように、事件は大きくなり、彼女のアカウントは御遺族の手によって閉鎖された。電通では社長が引責辞任し、司直の手によって法的に追及され、新しい経営者は公式に謝罪した。22時以降や休祝日に働くことは、社員の命を守るために禁止された。

 

だが、私にも罪があるという気持ちが消えない。いまも消えない。こうして書いていても、どこか遠いところから涙が送られてくる。

 

退職してからの2017年4月。博報堂を退職して『電通と博報堂は何をしているのか』という本を書かれた中川淳一郎さんと、電通を退職して『広告業界という無法地帯へ』という本を著された前田将多さんの対談があり、私は司会を務める事になった。
 

対談に先立ち楽屋で、前田さんが真剣な顔で「僕は、この本を出して前いた会社の悪口を言おうとは思っていません。そんなことは書いてありません。僕は辞めてしまったけど、前いた会社で今日も広告の仕事と格闘するみんなを尊敬しています。この本をたくさん売って、金儲けをしたいのでもありません。ただ、その仕事に長く就いていた者として、辞めたからこそ言えることがあると思うんです。それは、人間として健康に働ける業界になってほしいという願いです」と言った。中川さんは「俺もまったく同じ意見だ」と言った。
 

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広告業界の特殊性、これからの働き方について、たくさん意見を交換したトークセッションは終わった。私たちと、そこに集まって話をきいてくださった100人以上のみなさんは、最後に、とても自然に、高橋まつりさんに黙祷を捧げた。

 

「仕事」は、「自分の能力と、自分の時間で、社会の問題にとりかかり、担当部分を解決し、お金をもらう」ことだ。

 

そのなかで、誰もが自分のやりたいことを実現したり、仲間や恋人や家族と、健康で幸せな一生を過ごして欲しい。

 

会社を辞めて失業者になったが、徐々になにか、ひとりでできる「仕事」をしようと思う私も、小さくとも社会の何かの問題を解決したい。そしていつか古巣に、ささやかなお手伝い、恩返しができる日が来れば、と願っている。

 

【過去5回の「ひろのぶ雑記」はこちら】
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カウボーイも筆の誤り
鯉は遠い日の鮑ではない

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