【つぐない】
つぐない テレサ・テン
Reference:YouTube
その本が、きょう、2017年6月30日、形と重量をともなうものになった。
私の手元には5種類の『テキスト』がある。この本の形に結実するまで、はじめにダイレクトメッセージで送りつけてきたものから、ここに至るまでの改稿の歴史がすべてある。私は、大学で文学作品の改稿について専門的に学んだ。『テキスト』の『異同』について論じる学問である。作家が、どのような意図を込めて、作品を改訂し、加筆し、削除していくか。
この小説は、「初出」であるネット上での連載とはまったくちがうものになっている。そこにこそ、私は小説家の誕生を見る。
彼の書く地の文、そして鍵カッコの会話文のなかには大量のレトリックがある。あらゆる引用がちりばめられている。しかし、それはテクニックではない。記憶の中で鳴り響き、明滅する光源をそのまま記したらああなったのだ。静謐でやかましく、極彩色の暗闇がそこにある。そのレトリックは、あくまで自然だ。
思うに、彼はほとんど小説を読んだことがない。だから、何かを模倣するすべもなく、書くことの呪いに捕らえられるままに手を動かしている。結果、その斬新さは、事件であり、大事件だ。
そして、彼の文体には日本の文学が長く忘れていた「リリシズム」を復活させるリリカルさがある。これも、ノワール小説やハードボイルドに憧れた果ての文体の選択ではない。優しくて気が利かない人間が、過去を見つめるための「レンズ」を手に入れて、必死でファインダーを覗いた結果、浅い被写界深度の景色を素直に綴ろうとした結果のリリカルさだ。
わたしはそれを「レトリリック」と呼びたい。彼の紡ぐレトリリックには自意識の鬱陶しさがない。レンズは絶えず外を向いている。表現とは自分を主張するものではない。そんなことでは人間は決して救われない。自分を消すものを表出させ、共有するために、彼は書いている。そしてそこには、ただ見ているレンズがある。
哀切がある。しかしその哀切もよく分解してみるといい。9割が観察と描写、自分の想いはずっと1行だけだ。カメラをよく動かし、レンズでピントを合わせ、シャッターを切り、プリントされた写真を眺めて一言だけ内面を告げるのだ。これは彼のどんなに長いセンテンスにも共通している。