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エンパイアステートビルで会いましょう【連載】ひろのぶ雑記

田中泰延 田中泰延


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たまには失業したときに知っておくといい話を書こう。
 

私はよくSNSで「今日もハローワークに行ってきた」と事実を書くのであるが、それに対して「ウソ〜」という者が多い。
 

ウソではない。いちど退職、離職してみればよくわかる。ハローワークには、「転職(再就職)」か「開業」をしない限り、必ず行かなければならない仕組みになっているのである。
 

それは、失業保険の給付を受けるためである。要するに、お金をもらうためなのだ。そして、ハローワーク側から指定された日時に出頭しないと、絶対にお金はもらえない。
 

いわゆる「失業保険」とは、雇用保険の一部である基本手当のことで、それを行政やハローワークでは「失業給付」という。「今まで働いていた人が自ら離職したり、解雇や倒産、定年などで職を失ったとき、新たな仕事が見つかるまでの間に支払われる給付金」のことであり、その給付には「就職しようとする気持ちといつでも就職できる能力があり、積極的に就職活動を行っているのにも関わらず職業に就くことができない状態」という条件がある。

 

お金の話を書くのはいやらしいが、書いてしまう。私の1ヶ月の給付額は20万円あまりもある。また、早期退職制度に応募した結果の「会社都合退職」なので、1年間支給される。それは二十数年間、毎月給与から天引きされてきた何百万円もの雇用保険金の一部で、こういう時こそ、次の仕事を見つけるまでの命綱なのである。
 

また、昨年までの所得税はすでに払っているので、ここから所得税は引かれない。だが、昨年分の住民税は今年の6月に、1年分まとめてやってくる。これがでかい。私の場合は、100万円オーバーを一括で納めなければならない。けっこう、やばいです。あーあ。仕事しなきゃだなぁ。
 

とはいえ、長い人生の中で、労働の対価としてのお金ではなく、国家のセーフティネットとしての現金を受け取るのは初めてなので、なかなか新鮮だ。

 

思えば、ずっと働いてきた。多くの人はそうだろう。私にとっては、ここ何回か書いてきた、電通に就職する前の、運送会社でトラック運転手として働いた4年間がやはり鮮烈な思い出だ。

 

前回も「苦労した覚えはない」と書いたのだが、トラックの運転手はけっこう、給料がよかった。時はバブリーな1989年からの4年間。困窮していたのは運転手見習いだった最初の1年だけで、4tトラックを自分で運転するようになってからは、かなりのお金をもらえた。
 

また、世界一景気がいい日本に、たくさんの外国人労働者が集まってきていた。私のトラックにも、荷物の積み降ろしの補助のためにいろんな国籍の人が乗ってくれた。最初は、モハンマド君というイラン人だった。出稼ぎのイラン人はみんな上野で大麻を売っているというのは偏見である。とてもまじめな留学生だった。
 

ところが、運送会社の社長が、なにも考えずに加えて雇ったのはイスラエル人だった。出稼ぎのイスラエル人はみんな原宿で露天商をしているというのは偏見である。とてもまじめな留学生だった。
 

しかし当然というか、社長のなにも考えてないぶりは軋轢あつれきを呼んだ。同じ会社の中では、アラブ人とユダヤ人はそんなに仲良くなれないのである。毎日、なんとなく険悪な雰囲気になる。イスラエル人が辞め、イラン人も辞めると言い出した。
 

そのときモハンマド君を慰留しようと、還暦も過ぎているのになにも考えていない社長が気を利かせたつもりの行動が最悪だった。
 

上板橋の「かつ吉」というとんかつ屋にモハンマド君を連れていって「モハちゃん、ごめんな。機嫌直せよ」と厚切りロースとんかつ定食とビールを振る舞ったのだ。
 

モハちゃんは当たり前だがどっちも口をつけずに結局、辞めた。社長は「ヒレかつ定食にしたらよかったのかなあ」などと反省していたが、違うと思う。もうすこしいろいろ社長に教えてあげたらよかった。

 

そのあとやって来たのが韓国からの語学留学生、キムさんだ。彼は日本人の妻がいると言っていたが、結婚式の日、ソウルで一度しか新婦と会ったことはなく、一緒に暮らすのは3年後だと言っていた。どうもある宗教の決まりに従って集団で結婚式をしたようなのだが、モハンマド君のときに他人の宗教観について口を挟むのはよくないということを、僕も社長も身にしみて認識していたので、それ以上は聞かなかった。
 

彼は自分の妻と日本語でコミュニケーションをとるという夢のために勉強していた。当時ハタチの私は、25歳の彼に毎日、荷物の積み降ろしを手伝ってもらい、空いた時間に日本語を教えつつ、二人でタバコをふかした。
 

キムさんは土日も居酒屋で働いていて、その店の2階の酒瓶置き場に布団を敷いて寝泊まりしていた。当時、韓国ではオリンピックも開催され、彼は祖国の経済発展と、その中で大成功する未来を疑っていなかった。必ず日本語をマスターし、日本人の妻と一緒に貿易商として身を立てる、彼はいつもそう言って酒瓶置き場のボトルをちょっとくすねて飲み、眠るのだった。
 

キムさんの口癖は、「エンパイアステートビルで会いましょう」だった。タナカさんも成功する、ワタシも成功する、そしてこの酒瓶置き場を抜け出して、ニューヨークで再会しましょう。そんなキムさんも私も、アメリカになど行ったこともない。
 

だが、2年ほどして彼の妻が改宗し、あの結婚式の日以来顔も合わせていなかった彼に離婚届を出した。私は、キムさんが死のうとするのを2度、止めた。彼のあまりの状態に、私は離婚を言い出した彼の妻を訪ねて談判しようとしたが、社長が止めた。人の宗教に口を挟んではいけない、少しはものを考えるようになった60代の社長はそう言った。
 

失意のまま日本を離れるその日。私はキムさんをいつものようにトラックの助手席に乗せて成田空港まで運んだ。「きょうは降ろす荷物がナイデスネ」と彼は言った。私が「降ろすのはキムさんだよ」と答えると、彼は少し泣きながら、笑った。「ワタシが、心の荷物を降ろします」キムさんは2年間で上達した日本語で、なんだかうまいことを言った。
 

別れ際、キムさんはやっぱり「エンパイアステートビルで会いましょう」と言って私の手を握った。

 

それきり、キムさんとは会っていない。

 

成功した貿易商でなくていい、たとえばエンパイアステートビルの守衛になったキムさんと、失業者の僕でいい。いつか必ず展望台で再会する。そんな映画のワンシーンみたいな日が訪れることを、願っている。


出典:Wikipedia
 

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