<前編>沈黙【連載】田中泰延のエンタメ新党

田中泰延 田中泰延


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(前編)一周回った、倒錯

(後編)声なき声を聞く

映画「沈黙-サイレンス-」

 
 
ふだんコピーライターをしている僕が映画や音楽、本などのエンタテインメントを紹介していくというこの連載。
 
最近何が驚いたかって自分がサラリーマンではなくなったことですね。
 
わっ! びっくりした。
 
この『街角のクリエイティブ』でも失業者としての日々を毎週綴っております。
 

【連載】ひろのぶ雑記


 

どんな映画を観るにしても、「かならず自腹で払い、いいたいことを言う」をこの連載のルールにしているのですが、映画代が払えるかどうかの瀬戸際になってきました。
 
しかし、自腹で観ないと言いたいことが言えません。それ以前になんの試写会にも呼んでもらえません。この映画評、ここまでの連載は累計100万PVを超えています。なのに、映画業界から声がかかったことが、ただの一度もございません。すごく不思議なんですけど。
 
言いたいことを言うったって、人様に紹介したくならない、紹介する義理もないものは書かないだけだから、なにかの映画を悪く言ったことがないんですけどね。
 
わざわざこの映画はつまんないですよ! 観にいく価値なし! とか言いません。そういうときは沈黙しています。
 
と、いうわけで、今回採り上げるのは、映画「沈黙-サイレンス-」
 
もうね、観た人は、沈黙していられなくなる大問題作でした。
 
予告編をごらんください。

Reference:YouTube

監督は、大巨匠・マーティン・スコセッシ。
 


出典:「沈黙」オフィシャルFB

 

「タクシードライバー」「レイジング・ブル」「グッドフェローズ」「ディパーテッド」「ウルフ・オブ・ウォールストリート」スコセッシ監督の傑作、大作、話題作を挙げたらキリがありませんね。
 

原作は、遠藤周作のあまりにも有名な小説『沈黙』です。
 


出典:Amazon


出典:朝日カルチャーセンター

 

イタリア移民の子でカトリック信者であるスコセッシ監督は、28年もの間、この日本人が書いた小説を映画化することに執念を燃やしてきました。
 
物語は、1640年ごろの長崎、そして五島列島周辺のお話。江戸時代のいわゆる「隠れキリシタン」の話です。厳密にいうと江戸幕府の禁教令に逆らって信仰を続けた「潜伏キリシタン」と、その後明治時代まで隠れ抜いて、現在まで独自の変形したキリスト教を信仰する「カクレキリシタン」は別なんですけど、ひとまずそれはおいといて。
 


出典:Wikipedia

 
これ、教科書で習う「踏み絵」ですね。
 

http://www.machikado-creative.jp/wordpress/wp-content/uploads/2017/02/03.png
出典:「沈黙」予告編より

 

で、これは「絵踏み」なんです。これも「踏み絵」は絵の名前で、「絵踏み」は行為、という・・・すみません。またまた細かい話でした。
 
んで、この映画「沈黙-サイレンス-」、ほぼ3時間あるので長いのは長いのですが、話としては一本道なんです。ただ、一本道にみえるわりには、いろいろレイヤー分けしないと、けっこうわけがわからない映画だと思いました。
 

出演は
 


出典:「沈黙」オフィシャルサイト

 
江戸幕府がキリスト教を弾圧してるのは知ってるけど、はるばるポルトガルから危険を冒してやってくる主人公・ロドリゴ神父にアンドリュー・ガーフィールド 。「アメイジング・スパイダーマン」のスパイダーマン役の人ですね。
 


出典:「沈黙」オフィシャルサイト

 
ロドリゴ神父と一緒に、日本に来るガルペ神父役に、アダム・ドライバー 。「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」のカイロ・レン役で一気にブレイクしました。観てて、いつフォースの暗黒面に堕ちるかとヒヤヒヤしてましたが、そういう話ではなかったです。
 


出典:「沈黙」オフィシャルサイト

 
ロドリゴ神父とガルペ神父がなぜ日本にきたかというと、この人を探しに来たんです。フェレイラ神父を演ずるのは名優、リーアム・ニーソン。ふたりの若い神父は、フェレイラ神父が日本で拷問に屈してキリスト教を「棄教」し、日本の名前を名乗り、日本人の妻をめと ったという噂を聞き、彼を探し当てるために日本に渡ることを決意したんですね。
 


出典:IMDb

 
それにしてもリーアム・ニーソン、日本でキモノなんか着た日には「スター・ウォーズ エピソード1 /ファントム・メナス」で演じたジェダイ・マスター、クワイ=ガン・ジンにしか見えません。また、この映画「沈黙 -サイレンス-」は神父役のリーアム・ニーソンの顔のアップで始まるんですが、同じマーティン・スコセッシ監督の「ギャング・オブ・ニューヨーク」も、やはり神父役のリーアム・ニーソンの顔のアップで始まるんですよね。
 


出典:「沈黙」オフィシャルサイト

 
重要な役どころです。五島列島出身で2人の神父を日本に案内し、観た人ならわかると思うんですけど、その後何度も何度も何度も何度も出てきて、「えっ!? これ笑うところ? 天丼ギャグ?」っていうぐらい出て来るキチジローに窪塚洋介。映画「魔界転生」では天草四郎を演じててややこしいんですけどね。観客は、このキチジローを軸にいろいろ考えることになります。
 


出典:「沈黙」オフィシャルサイト

 
いまではハリウッド映画にもたくさん出演している浅野忠信は、宣教師が幕府の裁判にかかる時の通辞(通訳)を演じてます。これがただの通訳してる人じゃなくていろいろ喋るんですよ。ものすごい賢くてにくたらしいんですけど。ここがまた重要です。
 


出典:「沈黙」オフィシャルサイト

 
幕府の奉行として切支丹をとりしまる責任者である井上筑後守に、イッセー尾形。アレクサンドル・ソクーロフ監督のロシア映画「太陽」では昭和天皇を演じていましたが、今回、スコセッシ監督のもとで大怪演を見せますね。
 


(C)2009 Universal Studios. ALL RIGHTS RESERVED.(出典:映画.com)

 
多くの人が指摘していますが、この映画のイッセー尾形は、タランティーノ監督の「イングロリアス・バスターズ」におけるクリストフ・ヴァルツに匹敵するほどの怪演ですね。
 


出典:「沈黙」オフィシャルサイト

 
バクマン。」に出ていた小松菜奈ちゃんも、殉教するキリシタンの役で出ていましたが、僕は後から言われて気がつきました。それぐらい可愛く撮ってもらってないとうか、ちゃんと江戸時代の貧しい百姓としてのメイクがされていたということでしょう。あと、加瀬亮と、EXILEのAKIRAも出てたらしいんだけど、どこに出てたのか記憶にないんだよなぁ。
 


出典:「沈黙」オフィシャルサイト

 
映画監督でもある塚本晋也。俳優としても「シン・ゴジラ」などに出演していたのが記憶に新しいですが、はりつけになって殉死するモキチという、壮絶な役どころで出演しています。塚本晋也監督の「野火」は、キリスト教を扱った作品として、この「沈黙」のテーマとも密接な関連があります。

野火【連載】田中泰延のエンタメ新党
 

また、マーティン・スコセッシ監督も、塚本監督のことをよく知っていた上での起用ですね。
 
 
さて。ここまでは単に紹介です。中身の話をしないといけないんです。

この「沈黙」は一度映画化されてまして、1971年の篠田正浩監督版も観てみました。
 


出典:「沈黙 SILENCE」(1971年)予告編

 
書体が70年代ですね。
 


出典:「沈黙 SILENCE」(1971年)予告編

 
もちろんストーリーは同じです。長崎にやってきた2人の神父。
 
また、遠藤周作自身が脚本に参加しています。
 


出典:「沈黙 SILENCE」(1971年)予告編

 
神父を売った金で三田佳子演じる娼婦と遊ぶキチジロー。そんな話、小説になかったぞ。
 


出典:「沈黙 SILENCE」(1971年)予告編

 
篠田正浩監督だから、当然妻の岩下志麻LOVEなんで、たくさん出てきます。ほとんどストーリーの中心なんですね。これも小説には全然でてこない美女でして、遠藤周作にも、映画は映画というエンタテインメント、という割り切りが感じられますね。
 
で、なにがすごいってフェレイラ神父ですよ。
 
棄教し、日本名を名乗り、日本人化してしまった男、フェレイラ・・・見た目はまるで・・・
 


出典:「沈黙 SILENCE」(1971年)予告編

 
丹波哲郎やないか!!

日本人化にもほどがあるわ!!

「のだめカンタービレ」の竹中直人か!
 


出典:livedoor Blog

 
映画は、そのフェレイラ神父とロドリゴ神父の激しい議論の末、
 


出典:「沈黙 SILENCE」(1971年)予告編

 


出典:「沈黙 SILENCE」(1971年)予告編

 
えっ? ロドリゴ神父が岩下志麻を犯して終わる。
 
えーっ!?
 
それでいいの!? そんなんでいいの!?
 

・・・さきに、いろいろレイヤー分けしないとわけがわからない映画だと言いました。で、そのために僕はこの昔の映画化を検証して、遠藤周作の原作小説を読み直し、久しぶりに「新約聖書」の要所要所を読み、そして遠藤周作がキリストに関して書いたいくつかの短編、次いで芥川龍之介の「切支丹もの」といわれる小説群を読み・・・
 

てな感じで、・・・これを、一週間でやったんですよ。ほんと、むり。その間4本ぐらい別の原稿進めながらだったりして、ほんと、むり。眠い。
 
会社辞めてからのほうが10倍くらい忙しいです。なんでこんなことになってしまったのか。
 

さらには、なにか考えるヒントにならないかと思って本屋で中身も著者も見ずに思わず買ったんですが
 
映画「沈黙―サイレンス―」にみる「信仰と踏み絵」
スコセッシ監督守護霊とのスピリチュアル対話
大川隆法


出典:Amazon

 
いやいやいやいや、これ、ややこしい本やから。とりあえずこの本は3ページくらい読んで、大事にしまっておきました。
 
なので、ちょっと取っ散らかるかもしれないんですけど、しまった本は二度と開かずに書いていきます。眠いです。
 

「沈黙-サイレンス-」そのまんまの感想

まず、この映画をご覧になって、一本道の話を単純に受け取ると、こうなります。僕はまず、そうでした。
 

隠れキリシタンは大変やったんやなぁ、どえらい拷問されたり殺されて、そこへわざわざやってきた宣教師というのは信仰に対して純粋やなぁ、捕まってひどい目にあって、もう、涙やなぁ。江戸幕府は残忍やなぁ。

 
んで、
 

ひどいことが起こっても、神様は助けてくれへんなぁ。「沈黙」なんやなぁ。そもそも、神様というのはおるか、おらへんのか、わかるわけないんやから。神というのはおるんかいな?

 
と悩み果てたところで、
 

他人を救うためになのかなんなのか、結局、主人公は絵踏みして「棄教」するんやなぁ。でもそれは、信仰というのが結局、心の内面の問題で、心の中は人にはわからへんから、それは要するに神様がおるかおらんかの問題と同じなんやなぁ。

 

ああ、話は重たいけど映像は綺麗やし、すごい映画観たわ〜。しかし3時間弱は長いわ〜。おなかすいたなぁ。

 
というのが普通だと思います。
 
ところが、観ながらもやもやする何かが残る。さらに観てからしばらくすると、もっとモヤモヤすることが残る。
 
そのモヤモヤの原因には、いくつかの倒錯があるんじゃないかな、と僕は考え始めたんです。
 

映画「沈黙-サイレンス-」の倒錯

遠藤周作の倒錯

まず、原作小説は読んでも読まなくてもいいのですが、念頭においておいてほしいのは、原作も映画も、史実を描いた物語ではなく、史実からヒントを得た作り話である、ということです。
 
物語は、一人の神父を探しに幕府の過酷な弾圧・拷問の続くさなかに、島原の乱以降の長崎までわざわざやってきた二人の神父。そこから引き起こされるさらなる惨劇、が中心なのですが、実在の人物の名前と、架空の設定が混在していて、これは遠藤周作の創作なんですね。
 
で、遠藤周作というひとは、キリスト教をテーマにした小説や随筆をたくさん書いているわけですが、
 
「私は・・・子供の時、自分の意志ではなく親の意志で洗礼を受け、形式と習慣で教会に通ったまでです。しかし、あの日から、私は自分の背丈にあわせず親がきめて着させた服を捨てられぬことをはっきりと知ったのです」
 
短編『四十歳の男』で遠藤周作は主人公にこう言わせています。
 
また、遠藤周作は“キリスト教という洋服を日本人にも合うように仕立て直す”ことがライフワークである、とも述べています。
 
日本という国において、物心つかないうちにカソリックの洗礼を受けキリシタンになった自分。しかし西洋的な一神教の概念にはいつまでたっても馴染めないし、そもそも日本の風土と日本の生活に、キリスト教、これ、要るの? どうなの? ・・・って、これ、遠藤さん自分自身の問題ですね。
 

つまり、キリスト教にたいする疑問の本質であろう、神はいるのか? いるならなぜ沈黙しているのか? 聖書に書いてあることは全部事実か? 信仰は結局、心のなかの問題か? というテーマに、西洋的な議論を積み重ねた神学的アプローチで取り組んでるわけではないんですよ。
 

だから、「沈黙」は、その問題に悩んだ自分が、それぞれの局面でロドリゴ神父、フェレイラ神父、通辞役、モキチ、そしてキチジロー・・・いろんな立場だったら自分はその時どうするか、という悩みと行動の結果の「If 」を分担させてるわけです。
 
創作物の中では人間は自由に動かせますから。
 
最終的には、
 
「主人公ロドリゴ神父の信仰に対する姿勢は変わった。しかし、ある意味変わっていなかった。それはキリストは心の中にいるという認識の問題だ」
 
これを遠藤周作は「同伴者キリスト」と言った。ほとんど真言宗の弘法大師に対する「同行二人」に似てきています。
 

「主人公に対して鏡のように配置された登場人物のキチジローは変わってなかった。しかしどこまでも弱くてもその弱さこそが強さであり、それをどこまでも救うのがキリストである」
 
これはほとんど浄土真宗の親鸞の「悪人正機説」、「善人なおもて往生とぐ、いわんや悪人をや」という、阿弥陀如来は結局どんな弱い人間でも救うんだ、という思想に似てきています。
 

つまり、
遠藤周作の原作は、信仰の純粋性をどこまでも検証する、というお話ではなくて、日本人である自分に、キリスト教をフィットさせるため、そこを成り立たせるために、長崎のキリシタンにヒントを求めたんじゃないかと思うんです。
 

キリシタン達の倒錯 祈らず、拝んでいた

そうなると、劇中で二人の宣教師が見た長崎の隠れキリシタンたちの姿も、日本的に倒錯していた。

この姿こそが、日本人である遠藤周作が感じていた、日本のキリスト教って、まず入ってきた時点で倒錯してない? という気持ちを象徴的に表しているんじゃないかと思うんですよね。
 

彼らは、祈るのではなく、拝むんです。聖書を読むのではなく、ラテン語の謎の祈祷をありがたがります。そもそも日本に入ってきたキリスト教には、驚くべきことに「聖書」の翻訳がない。ほんとはまずそこからですよね。でも、「どちりな・きりしたん」とか断片的なものしかありません。
 
そして、神父が持ってきたロザリオの珠をありがたがります。物を心の拠り所にします。
 
また、キリシタンになれば、死んだら全員「ぱらいそ」(天国)に行けると信じている。くるしい江戸時代の百姓としての現世から逃げたい一心で信仰する。実際は、キリスト教における天国の門は、結構せまいんですけど、知らないんですよ。
 
さらに決定的なのは、白人、「白人そのものを拝む」んですよ。これ、大島渚の「戦場のメリークリスマス」でも明快にされてたテーマですね。白人に憧れちゃうんですよ東洋人である日本人は。ひれ伏すんですよ。だから、天から現れたようなパードレに対し村人たちは、「行かないでくれ、ここにいてくれ」と泣いて頼みますし、キチジローが絵踏みしても絵踏みしてもギャグみたいにまたロドリゴに「コンヒサン、パードレ、コンヒサン!」(懺悔させてください神父様)と寄ってくる。
 
また、ポルトガル人のパードレは日本語を覚える気があんまりありません。学のない村人も、必死で外国語をしゃべりますし、幕府の奉行も、向こうの言葉に合わせてます。これ、原作だともうすこし微妙なんですが、英語のセリフでできてる映画だと決定的です。郷に従わないんですよ。日本語習わないんですよ。ポルトガル人。このあたりが、遠藤周作の倒錯に加えて、スコセッシ監督の倒錯につながっていきます。
 

スコセッシ監督の倒錯

さて、遠藤周作の原作を28年も映画化したかったというイタリア系カトリック信者のスコセッシ監督。
 
上で述べたように、日本人である遠藤周作が、日本人なのにクリスチャンであることに決着をつけるため、さまざまな登場人物に悩みや行動を仮託した小説にたいして、すこし、真っ正面から向き合いすぎてるんじゃないかと僕は思うんです。
 

遠藤周作の心の中の問題について「実在の登場人物と架空の登場人物を混ぜて、受難させたり、殺したり、迷わせたり、逃げさせたり、激論させたり、諦めさせたり、いややっぱり大丈夫と思いなおさせたり」という形式なのに、それを「真に受けた」スコセッシが、白人の名優含むマジの役者上手たちでまるで史実のようなリアリズムタッチの映像にしてしまった。
 

それを日本人である我々が観ることは、これ実は一周回った倒錯なんじゃないか、それがモヤモヤの正体なんじゃないかと思いまして。
 

ただし、この、僕がいうところの倒錯が、この映画をダメにしているのかというと、まったく逆なんです。
 

この倒錯によって、この映画はすごいものになっていると言える。
 

それをこれから映画そのものをレイヤー分けして・・・
 

・・・さてみなさん。

ここまででもう7千字です文字数。
 

田中泰延のエンタメ新党、初の試みです。前後編にしたいと思うんです。
 

いや、それぐらいこの「沈黙 -サイレンス-」という映画は、語ることが多すぎるんです。
 
なので来週、2月22日(水曜日)は、
 
『沈黙【連載】田中泰延のエンタメ新党 後編』
 
そして青年失業家の輝ける日々を綴った
『ひろのぶ雑記』の2本立て公開で行こうと思います。
 

また、映画「沈黙 -サイレンス-」に関して、みなさんのご意見もお寄せくださいませんか。
 
この映画に関してはだれかともっと話したいんです。いくつかのご意見に対して僕の見方を述べる試みもしてみたいと思います。ご意見は以下のハッシュタグをつけてTwitterで呟いてください。

 
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