ルック・オブ・サイレンス【連載】田中泰延のエンタメ新党

田中泰延 田中泰延


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生きるとは、地図と年表をつくること。

映画「ルック・オブ・サイレンス」

 

ふだん広告代理店でコピーライターやテレビCMのプランナーをしている僕が、映画や音楽、本などのエンタテインメントを紹介する田中泰延のエンタメ新党。
「かならず自腹で払い、いいたいことを言う」をこの連載のルールにしています。どちらかというと、観てから読んだほうが話のタネになるコラムです。
 
さて、前回。早くも本年度のベストワン級、いや、映画史に残る金字塔になることは間違いない、「マッドマックス 怒りのデス・ロード」を観てしまいました。もう連載は2016年までお休みしようと思っていたのですがそうはいかない。
 

ちなみに、「金字塔」ってどういう意味か知ってます? 『大辞泉』を引きますと、
 
1.《「金」の字の形をした塔の意》ピラミッド。
 
とあります。金色の字が彫ってある塔じゃないんですよ。ピラミッドの形が漢字の「金」に似てるからなんですよ。なんなら「全字塔」でも「傘字塔」でもよかったのです。
 
金字塔とよく似ていて混同するのですが、これは「まんじとう」でして、『仮面の忍者赤影』に出てきますし、

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出典:風知空知

これも金字塔とよく似ていますが「ぜんじーぺきん」で、中国生まれのマジシャンというふれこみでしたが、話をよく聞くと日本の中国地方生まれでした。

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出典:Yahoo!ブログ

さて、そんな、知りたくなかったことを知ってしまうことが人生にはあります。すぐれたドキュメンタリーを観た衝撃はまさに「知りたくなかったことを知ってしまう」経験ではないでしょうか。
 

そんなこんなで、今回は、はじめてドキュメンタリー映画を採り上げます。「ルック・オブ・サイレンス」。予告編をご覧ください。

Reference:YouTube

監督は、ジョシュア・オッペンハイマー。

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出典:Prodita Sabarini

オッペンハイマーさんという名前からもわかるように、ユダヤ系アメリカ人のかたですね。これが重要な意味を持っていると思います。
 

ではこのドキュメンタリーはなにを記録しているのか、という背景なんですが、まぁ普通知らないことなんですよね。もちろん僕も知らない事実でした。知らないことを知る、ここがドキュメンタリーを観る第一の意義ですね。
 

インドネシアという国があります。日本でも人気の観光地、バリ島のある国ですね。スカルノさんという人が初代の大統領になりました。あのデヴィ夫人の旦那さんですね。これ、若い頃のデヴィ夫人とスカルノ大統領です。

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出典:
芸能TABLOID

で、1965年、そのインドネシアでクーデターが起こったんですね。つまり、政府を転覆しようとする反乱です。それを、ちょっと名前がまぎらわしいですが、スハルト少将が鎮圧。スハルト少将は、共産党が裏で手を引いていると断定しました。それでインドネシア全土で共産党員と、「関係ないけど共産党員と決めつけられた人」、合わせて100万人以上が虐殺されたといわれています。
 

スカルノ大統領はこれが原因で失脚しまして、デヴィ夫人も国を捨てて亡命して、今は日本でタレント活動しているわけです。
 

で、その後スハルト少将は大統領になりまして、30年以上続いた独裁体制のもと、虐殺を指揮した人たちは「建国の英雄」と呼ばれ、国会議員になっていたり、政府の重要な職に就いていたりしています。またそのとき鎮圧部隊を手伝って直接人を殺した民間人たちもやはり「ヒーロー」として街で大きな顔をして暮らしているんですね。また、殺された共産党員(と、共産党員と決めつけられた人たち)の家族は、いまもはっきりと差別されています。
 

殺された人の本当の数は、さっぱりわかりません。なにしろ、ふつう虐殺事件というものは「被害者側が数を盛ってくる」もんなんですが、このケースだと「加害者側が盛ってくる」という人殺し自慢が続いているわけでして、いまもインドネシアでは、「あのとき俺は共産党員を何人殺した」「いや、俺のほうがたくさん殺した」という自慢がまかり通っているわけです。

 
ちょっと考えられない世界ですね。いまはスハルト大統領の独裁政治も終わり、インドネシアの民主化も進んでまして、僕も一昨年、5日ほど首都のジャカルタに滞在したんですが、東京と何ら変わらないような大都会で、AKB48の姉妹グループであるJKT48も活動してて、その劇場があるホテルに泊まったぐらいなんで、50年前にそんな血で血を洗うような惨劇が繰り広げられたなんて跡形もない繁栄ぶりなんですよ。でも、その繁栄を肯定する考え方として「あのとき共産党員をみんな殺したからインドネシアの資本主義が発展したんだよね。いやぁ〜、殺してよかったね」というのはベースとしてあるんですね。
 

ユダヤ系であるオッペンハイマー監督はこれを「ドイツがもし戦争に勝っていたら、ナチスがそのまま政権を握っていて、ユダヤ人を虐殺した人たちはみんなヒーローになっているはずで、インドネシアはその状態」と言っていますね。で、そこから取材がはじまるドキュメンタリー映画なんです。
 

さてさて、ここでドキュメンタリーとは何か定義を見てみましょう。『大辞泉』を引いてみますと
 
ドキュメンタリー【documentary】
実際にあった事件などの記録を中心として、虚構を加えずに構成された映画・放送番組や文学作品など。
 
と、あります。先に、ドキュメンタリーを観る第一の意義は、「知らないことを知るため」と書きましたが、はたしてそれだけでしょうか。それだと学校の勉強と変わらないんで、面白いわけないですよね。
 
そうです、ドキュメンタリー映画を観る第二の意義は「めちゃくちゃ面白いから」なんですよ。辞書には「虚構を加えずに構成された」とありますが、そうはいかない。嘘を混ぜるわけにはいかないが、(それはドキュメンタリーではなく、プロパガンダと呼ばれます)ドキュメンタリー映画は記録ではなく、作品なんです。監督のはっきりした意図があり、それに沿って撮影されているし、なにより「編集」されている。時系列だって怪しいものです。
 
誤解を恐れずにいいますけど、要はお金払って観る、めっぽう面白いエンタテインメントなんですよね。

それを特に意識させられたのは、昨年(2014年)公開されたオッペンハイマー監督の前作のドキュメンタリー映画「アクト・オブ・キリング」を観たときですね。

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出典:Amazon

 
この映画にはブッ飛びました。ぜひ予告篇をごらんください。

映画「アクト・オブ・キリング」予告篇

Reference:YouTube

さきほどから、インドネシアでは「虐殺した側がいまでも大威張り」と書きましたが、オッペンハイマー監督もそれに気がついたんですね。いま政府で偉い地位に就いてる人や、地域社会で大きな顔をしてる人、裕福な人の中にかなり、「あのころワシはたくさん殺してのう〜、この国の役に立ったんじゃ〜」と自慢するおじさんが多い。
 
その人たち、なんとインドネシアのテレビ番組にも出て、自慢しまくりです。

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出典:samlib.ru

真ん中の人、みのもんたに似てますね。で、右の帽子の人が、この「アクト・オブ・キリング」の主役のアンワルさんといって、たくさん共産党員(と、共産党員と決めつけられた人)を殺した人なんです。左の女性の司会者が「アンワルさん、何人ぐらい国の害虫を駆除したんですか?」「1000人はこの手で首を切ったね! ほらそこのマネキンをみてごらん。そんな感じで首を並べてね」「素敵!」スタジオ拍手、みたいな番組なんですよ。目まいがするでしょう。
 

オッペンハイマー監督もはじめは、その自慢ぶりに驚いてカメラを回していたんですね。その自慢ぶりを観ると、「カメラの前では人は必要以上にはしゃぐ」ということがよくわかります。

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出典:公式サイト

映される方はカメラを意識するわけですから、ドキュメンタリーというのは事実の記録だけではないことがよくわかるんですけど、それでは終わりません。ここからがこの映画、空前絶後にすごいんですよ。
 
なんとオッペンハイマー監督、そんなインドネシアのかつての人殺しさんたちを騙し倒すのです。
 
「いやぁ〜、素晴らしいですね、人殺しのみなさん! 昔、同じ村の知り合いたちを殺しまくったことがそんなに自慢なんですね! 素晴らしい! 僕、映画監督なんで、みなさんがどんな感じでカッコ良く近所の人をブチ殺したか、再現映画つくります! カッコいい衣装も、セットも用意しますし、殺された人がどんなに悲惨に死んだか特殊メイクもばっちりですから、みなさん、よく思い出して派手にカメラの前でブチ殺す演技してくださいよ!
 

…悪魔でしょう、この監督。いや、もう人殺しの皆さんと、この監督と、どっちが狂ってるのかわからない悪魔的発想じゃないですか。

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「アクト・オブ・キリング」予告編より

ね、変な衣装でしょう? 陶酔しきってるでしょ? オッペンハイマーさん、インドネシア語も達者なんですよ。どれほど彼らに密着して、おだて上げて撮影に引きずり込んだか、想像すると恐ろしいものがあります。

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出典:IMDb

で、震えるような人殺しの再現が嬉々として行われるんですが、観ているこっちは、だんだん恐怖を通り越して、笑っちゃうしかない状態になります。だってこの人たち、殺したことに関して褒められ続けてるわけで、まったく罪悪感のない、最高の自慢話なんですから。
 

これを観ると、大虐殺や戦争というものがどうして起きるのか、だんだん分かってくるんですね。それは他人事じゃないんです。正しいことだ、正義なんだ、といわれたら自分もあっという間に殺す側にもなるし、お前は疑わしい、悪いヤツに違いない、と決めつけられたらたちまち殺される側にもなる。それを実感させられるんですよ。そのメカニズムを映像化したことにおいて、この映画の見せたことは空前絶後ですね。
 
そういう意味では、「人殺しは悪い、こいつらの罪を問う。そしてインドネシア政府の罪を問う」というような薄っぺらいメッセージの映画じゃないんですよ。われわれが知っているつもりの「正義の正体」「悪の正体」、それはなんなのか、何が嘘で、何が真実かをギリギリのところで考えさせる、スリリングなエンタテインメントなんですよ。
 
ですが、「アクト・オブ・キリング」はさらに突っ込みます。ここで終わらないことがこの映画を不滅の傑作にしています。なんと加害者のアンワルさんに、「殺した相手がどういう風に死んでいったかはアンワルさんがよく知ってるんだから、被害者役も演じてみてくださいよ」といって演らせるんですよ。そうすると、ずっと自慢顔だったアンワルさんに徐々に変化が訪れる。


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「アクト・オブ・キリング」予告篇より

生まれて初めて、殺されるのは痛かったり苦しかったり、イヤなことなんじゃないかと気がつき始めるんですね。いえ、わかってたんでしょうけど、あえて自慢すること、正義だったと主張することで罪の恐怖から逃げていたといえる。

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「アクト・オブ・キリング」予告篇より

そして映画史に残るであろう、衝撃のラストを迎えます。DVDになってますので、ぜひご自身でお確かめください。
 

まぁ、先に書いたように、ドキュメンタリー映画というのは、実は監督の意図にそって撮影され「編集」されている。時系列だって入れ替わっているかもしれません。なのでこれがすべて真実だとはいいきれません。また、頭のいい白人が、人のいい、乗せられやすいアジア人を騙して意図通りに動かしたみたいで感じ悪いところもあるんですけど、オッペンハイマー監督が騙して映したのは、いまもインドネシアで権力側にいる人間であり、これを公開したことで彼は二度とインドネシアに入国できません。命も狙われているのは当然で、死を懸けて完成させたことは間違いないです。

 
ね、ドキュメンタリーといっても、面白いものって、結局劇映画と同じように、強烈な意図とシナリオがあるんですよ。「撮りますよ」という意図に加えて、それを超えた「撮れちゃった」部分があるのがドキュメンタリーのすごさで、場合によっては劇映画を遥かに超える面白さが浮かび上がります。
 
でも、あくまでオッペンハイマー監督の視点は「人間存在に共通するヤバさ」を暴くことにあるのであって、政治を糾弾する方向には向いていません。それはあくまでアメリカ人の立場として他人事である部分でもありますし、我々日本に住む者がそれを冷房の効いた映画館で観る他人事な部分でもあるんですけどね。
 
さて、「アクト・オブ・キリング」の話が長くなりましたが、今回見た「ルック・オブ・サイレンス」はまさしくその続編なんです。前作は、加害者側からの観点だったんですが、今回は被害者側からの視点になります。
 
ものすごくトリッキーな作り方だった前作に比べると、これは、わたしたちが深夜の民放やNHK特集でよくみる手垢のついた手法かもしれません。オッペンハイマー監督は言っています。「被害者側からみたドキュメンタリーという、ワンパターンの地雷原のような視点をどうするか」…さあ、どうしたでしょうか。
 

今回、カメラが追うのは、アディさん。前作「アクト・オブ・キリング」でスタッフとして手伝った彼は、実は1965年、お兄さんが虐殺の被害者になってしまった人なんです。

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「ルック・オブ・サイレンス」予告篇より

お兄さんは政府を転覆しようとした共産党の一味として、むごたらしい殺され方をされたんですが、アディさんの一家は、じっさいは共産党と全く無関係でした。

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「ルック・オブ・サイレンス」予告篇より

アディさんの母親は、長男が殺されたその日から時間が止まってしまっています。50年間、うわごとのように息子を殺された恨みを叫び続けて暮らしています。しかも、息子を手にかけた虐殺者たちは、いまも同じ村で家を並べて暮らしているのです。そして、虐殺グループは、いまは誰を殺したかなんて忘れてハッピーに生活してるんですね。
 
反対に、アディさん一家は、幼い子供も含めて、あらゆる面で差別されています。息子は、学校で担任の先生に「お前は共産党の一家の子孫だ。公務員にも、警察官にもなれない」とはっきり言われているんですね。

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「ルック・オブ・サイレンス」予告篇より

アディさんは前作「アクト・オブ・キリング」の撮影中、近所の住民の取材テープの中に、自分のお兄さんを殺した経緯を詳しく話す人たちを見つけてしまうんですよ。で、アディさんはオッペンハイマー監督とお母さんに告げます。彼らと話をしてみる、と。

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「ルック・オブ・サイレンス」予告篇より

冷静に考えてめっちゃヤバいですよね。そこでオッペンハイマー監督が採った作戦が、これまた前作に負けず劣らず悪魔的なんですよ。
 
アディさんは、メガネ屋さんを仕事にしているんですけど、無料でメガネを作ってあげるからお宅に伺います、と言ってかつての虐殺者の家に上がり込むんですよ。

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「ルック・オブ・サイレンス」予告篇より

こりゃ親切な若者だわい、と思わせて身も心も油断させます。

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「ルック・オブ・サイレンス」予告篇より

アディさんは必ずこの視力検査用のメガネをかけさせて、マヌケな姿にしてから訊きます。「よく見えますか? 遠くが見えますか?」と。これ、きわめて示唆的な、すごいセリフですよね。で、相手が「ああ、よく見える」と言った隙に過去の話を引き出します。
 
「おじいさんは、昔、国家の反逆者を退治したんですって?」
 
相手は、遠い昔を詳細にみるような目つきで、過去の殺人の自慢をとうとうと始めます。耳を塞ぎたくなるような話です。アディさんは黙ったまま相手の話をじっと聞いています。
 
「ラムリというやつがおってな、そいつは共産党員と噂されとったから、股間を切り落としてな、泣き叫ぶところをこうやって、ナイフを胸に突き立ててな、川に突き落としたんじゃ。助けてくれと叫んでいたよ。みんなで大笑いしたわ」
 
そして相手の大喜びの話が最高潮に達したとき、アディさんはいきなり言うのです。「そのラムリは、僕の兄です」
 
場が凍りつきます。その時カメラが捉えた、相手の顔。これは前作以上に衝撃的です。
 
沈黙の時間が続きます。「アクト・オブ・キリング」では、自慢を続けていた加害者が、被害者の立場をなぞる遊びによって人間の心を思い出したのですが、今回は、アディさんに対して自慢話を続けないことで、逆説的に良心の存在が浮かび上がってきます。
 
しかし、一瞬ひるんだのちに、相手は必ず自己の正当化を始めます。いわく、「私は命令されてやっただけだ」「私に責任はない」「国を守るためにやったことだ」と。そして次にはアディさんの横に立ってカメラを回すジョシュア・オッペンハイマー監督をなじり始めます。「ジョシュア、おまえ話が違うやないか! 出て行け!」と。何軒もの虐殺関係者の自宅に押し掛けますが、すべて同じ反応です。

当の虐殺者がもう高齢で死んでしまっている家では、家族にまで質問を浴びせます。

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「ルック・オブ・サイレンス」予告篇より


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出典:「ルック・オブ・サイレンス」オフィシャルサイト

家族は困惑します。「親父はそうだったかもしれんが・・・俺たちを責められても」
 
この強引な手法、原一男監督が奥崎謙三という男を追った、日本が世界に誇るドキュメンタリー映画の大傑作、「ゆきゆきて、神軍」を彷彿とさせます。

https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51HkxzCDkNL._SY445_.jpg
出典:amazon

 
ここに、その映画の一部が紹介されていますから、ご覧ください。

「ゆきゆきて、神軍」 (の一部)

Reference:YouTube

奥崎謙三は、戦時中、南の島で自分の所属していた部隊で食糧が尽き、上官が兵士を殺して食べた、という凄惨な事件の真相を暴くために、かつての上官の家を一軒一軒訪ねて問いつめます。強烈な映画です。ですが、奥崎が、戦後そのことを隠してひっそりと生きている上官を問いつめるのに比べて、アディさんがすることはその100万倍危険です。彼らは、いまでも国の英雄として力を持っているのです。じっさい、虐殺部隊のリーダーだった男には、激しい脅迫を受けます。

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</p>
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「ルック・オブ・サイレンス」予告篇より

謝罪も和解もありません。

過去に起こった暴力的な行為に対して、映すという暴力的な行為で対峙する緊迫感のなかで、加害者の誰もが、虐殺を「自分の責任」とは捉えていないという事実が浮かび上がります。

暴力の輪郭を明らかにし、絶望を提示するこの映画ですが、不思議なほどの静謐さに支配されています。全篇、インドネシアの熱帯で啼く虫の声が響きます。そしてアディさんの沈黙のまなざし、“LOOK OF SILENCE”こそがこの映画をなにより雄弁に語っています。
アディさんが見つめるのは画面の向こうの私たちなのです。あなたはこれを見た。黙って見た。ここから、何を考えるのか、何を考えないようにするのか、と。
 
もう一度誤解を恐れずにいうと、ドキュメンタリー映画が対岸の火事である間は、面白いエンタテインメントです。

ですが、それを自分の岸辺に引き寄せて考えたとき、なにかを考えるきっかけになり得るのです。それは生きるための、地図と年表をつくる材料になるのです。

人生を歩くためには、まず自分の地図を持ってください。
地図がないと、ただ走るだけでハンドルのない車と同じで、人間は結局、どこからきてどこへ行くのかわからないまま死んでしまいます。

また、人生を過ごすには、自分の年表を持ってください。
年表がないと、人間は、歴史の流れの中でいつ頃生まれていつ頃死んで、その時代の中で最低限何をすべきかわからないまま死ぬことになります。それは時計のない飲み屋と同じで、店を出る時だいたい後悔します。
 

その地図と年表には、みんなが使える「正しいもの」というのはないんですよ。人それぞれの地図と年表なんですね。「正しい」を無理に規定しようとすると、この映画で語られている悲劇につながる可能性があるんですね。それぞれがそれぞれの方向を向いて、限られた時間の中で歩くしかない、人それぞれの多様性を認めるしか、悲劇を避ける知恵はないんですね。

この映画も、いろんな見方ができます。虐殺というが、国や国際社会が正義と認めてしまったらそれは罪なのかそうではないのか。共産主義国家がインドネシアに樹立されていたら歴史は、経済は、日本は、どうなっていたのか。アメリカが、日本が、インドネシアでなにをしたか、この事件で利益を得た部分はないのか。そのアメリカや日本には暴力の過去はないのか。われわれ自身にはほんとうに無関係なことなのか。

そういう、人それぞれの地図と年表を作るためには、学校で勉強するのが密度も効率も一番なのですけど、いかんせん面白くないこの作業にとって、こういったすぐれたドキュメンタリー作品との出会いは非常に役割が大きいんですよね。めっぽう面白くて、引き込まれるんだけど、その過程でついつい知りたくないことを知ってしまう、そこから自分の調べ物が始まる。そして自分なりの世界地図と歴史年表が心の中にできていく。

オッペンハイマー監督は、「我々は善人である、という確認のために映画を作ることは間違いです」「この映画は世界を知る“窓”ではなく、“鏡”だと知ってください」と言っている。
 
窓だと思ってのぞき込んだものが鏡だからこそ、我々は戦慄するのです。
 
ジョシュア・オッペンハイマー監督のこの連作「アクト・オブ・キリング」と「ルック・オブ・サイレンス」は、ドキュメンタリー映画の金字塔だと思います。
 
そもそも、映画の題名が完璧です。「アクト・オブ・キリング』とは、加害者たちが再び演じる殺人のことであり、われわれ観客の中に存在していていつ発動するか分からない悪のメカニズムのことです。「ルック・オブ・サイレンス」とは被害者の無言の視線であり、加害者が口をつぐむ姿勢であり、われわれ観客が黙って映画を見るしかない眼差しのことです。

 

最後に、1983年のちょっと変わったヒット曲、MEN AT WORKの“OVERKILL”を聴いて頁を閉じたいと思います。OVERKILLとは、「やりすぎてしまったこと、考えすぎてしまったこと」という意味の言葉ですが、字義通りの「虐殺」ととらえると、この歌の意味もまた静かに響いてきます。

Reference:YouTube

それにしても疲れました。次回は、えへらえへら笑えそうな映画を観に行きたいなあ、と願っています。でも、この映画によって心のどこかにできた結び目は、きっと、ほどけることはないでしょう。

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