自意識でアモーレ
昨今のSNS文化の中、訳の分からんユーチューバーが台頭するなど、子供から大人までが自分の顔を公に晒すようになりました。『我輩は特別である! 名前はまだない』というように、何者でもないのに何者かになれそうな気配が社会全体を覆っています。チャンスがいたるところに転がっていそうなムードが、人々の自意識を刺激しているのです。
かくいう自分も「街中のクラクションは全て自分に鳴らされている」と錯覚するほど、自意識過剰です。“ジカジョウ”という呼び名がぴったりなのですが、そんなギャルみたいな言葉を使いたくないという自意識がまた邪魔をし、八方塞がりの状態です。自分が“自意識村”と言われる美大に進学したのも、そんな
このように、人は多かれ少なかれ自意識によって縛られているわけですが、しゃくれはしゃくれに、マッチョはマッチョに、デブが油ものに敏感なのと同様、ジカジョウはジカジョウに敏感です。
おそらく、自分がウディ・アレンに惹かれる理由はそこにあります。自分で書いたシナリオを自分で監督し、主役までやってしまうという彼に内包された、その自意識に魅了されているのではなかろうかと。
実は、彼の映画そのものが好きなわけではありません。もちろん作品は面白いのですが、大ヒットした「ミッドナイト・イン・パリ」も、評価の高い「ブルージャスミン」「マッチポイント」も、公開中の「カフェ・ソサエティ」も食指が動きませんでした。なぜならそれらには全てウディ・アレンが出てないからです。
重い腰を上げてようやく鑑賞しても、キャメラのこちら側にいるウディが気になって映画に集中できないのです。ウディが突然「カット!!」と言いながら、フレーム内に飛び込んで来たらいいのになぁ、と映画の本筋とはまるで違うことを考えてしまうのです。
今思えば、自分が北野武や野田秀樹の作品に魅了されるのも、ひとえにこの自意識のありかにヒリヒリするからなのかもしれません。彼らもまたウディ・アレン同様に、自分で作って自分が出るタイプの表現者です。
一応、野田秀樹
一応、北野武
上記の人達は、「これは我輩の作品である! 汚すでない! 汚していいのは我輩だけである」といった自意識が、演技に透けて見えます。
演出家が自分で書いた芝居をどう演じようが誰も文句は言いません。下手くそだっていいのです。野田秀樹なんてめちゃくちゃです。武も何を言っているか分かりません。しかし、その究極の自由さと、一歩間違えたらイタい人になりかねない危うさが、最高に心地いいのです。